2017/03/19

「嫌われる勇気」を持って生きると人間関係は淘汰される


「嫌われる勇気」と必要な覚悟と


私が初めてアドラー心理学の「嫌われる勇気」を読んだ時の大雑把な感想はこちらに書いています。

アドラー心理学と私とのあまりの近さ「嫌われる勇気」


それまで未知の人だったんだけど、早くにこの本を読まれた方から「似ているよ」と指摘されたのが、手に取ったきっかけでした。

で、確かに似てました。「この人何者??」と気持ちが悪くなったくらいです。つまりアドラーという人の存在を知る以前から私はこの人の生き方に相当近い生き方をしていたんですね。

いまはかなり時間が経ったので、アドラー先生の主張と自分の考え方の違いも見えてきています。私はトラウマを否定しないし、霊的な視点は必要だと思っているので、そのあたりはアドラー先生とは違います。納得出来るのは6~7割と言ったところでしょうか。

当たり前だけど、私とアドラー先生はやっぱり違う人間だってことですね (^_^;)



いいかげんな人間関係は淘汰される


でも、この「嫌われる勇気」という本は一つの方向としては面白いと思っています。

この本のように「嫌われる勇気」を持って生きていると、確実にうわべだけの友人関係は減ります。本当に深くつきあうこと、理解しあえる関係は残りますが、そうじゃない気軽な友達は減りますね。まあ、私はそういうのは好きじゃないからいいんだけど…。

精神疾患を持っていると、病気のことそのものはもちろんですが、病気とは差し当たって関係がない話でも、その相手の日常生活に身近ではない話題だと、よく信用されないことが起こります。

たとえば政治的な話とか、世界に関する話とか、その人の観念にはなくて、非常に意外性のある話だとすると、それを言ったのがそのジャンルの専門家ならともかく、私が仮に本を読んで、いろいろ学んで、自分なりに理解したから話したんだけど、ひどい場合だとそれが私の妄想みたいに受け取られる場合もあります。

特に精神疾患そのものに詳しくない人ですと、そこから誤解が生じてくるので、「この人の言うことは信用出来ない」というバイアスが働いてしまいます。一度、そういう前提で認識されてしまうと、その後は正しく病気を理解してくれない限り、大抵のことは話しても信用してくれないことになりかねません。

まあ、こういう場合はお互いに不毛なので、親しくする意義もないから、自然消滅するパターンもあるし、もうやめよう、ということになったりもします。

随分ありましたよ、そういうこと。「嫌われる勇気を持って生きる」ことってそういうことです。嫌われないまでも「理解されないこと」は本当にたくさんあります。孤独に強くなければやっていけません (ーー;)

でも私は八方美人になって万人に好かれるつもりはないので、そういう無理なことは自分に課しませんが。



親しい関係はどこまでも「お互いさま」


ただし、本当に深いところから、病気もなにもかも含めて私を理解しようと思ってくださる方は非常にありがたい存在なので、大切にします。

この「相手の病気や障害を理解する」というのは大きな意味があって、ハンデを認めて、その上で病気や障害について学んで、困っている時にはさりげなく手助けが出来るようにしたい、と願う気持ちが根底に働いています。精神疾患であっても、肉体的な病気であっても身体障害であってもそうですね。

親しくなりたい人のいいところだけを理解しても半分の理解でしかありませんから…。ハンデの部分をきちんと理解してそこで初めて対等になれると思います。

もちろん私自身が相手の病気や障害などに対する時にもそうします。ついついおせっかいになりがちなのは反省しますが、病気をちゃんと理解して、そこで出来るヘルプはやりたい、というのは自然な気持ちだと思うんですけど…。



条件付きで変化しないものの大切さ


このブログでも私はすべての人に受け入れてもらえることを期待して書いてるわけではありません。必要だと思われた方が必要な情報をお持ち帰りいただいて、それをご自身に役立てていただければ充分だと思っています。

だからウケそうな内容にもなりませんし、匿名でもありませんし、素顔のままの本音を書いている気がします。それが最も私らしいのだと思います。

病める時も健やかなる時も、貧しき時も富める時も…変わらないものを大切にしたいと思っております (^_^)


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